わたしはわたしでしかない
わたしはわたしでしかない、という事実に時たま絶望することがある。
わたしの記憶の限り、わたしはわたしの延長線上をひたすらに生きている。
一番幼き日の記憶はいつだったか。
石ころに絵の具で色をつけ喜んでいた自分。
特定の友人としか遊ばず、周囲の大人たちを困惑させた自分。
得意の一輪車を乗り回し、調子に乗ってうさぎだよ~ぴょんぴょんと手で耳を作りながら乗っていたら、盛大にこけて大泣きした自分。
柄にもなく児童会長になり全校生徒の前で話すも、声が小さいとヤジを飛ばされる自分。
音楽と出会い、心を動かされ、ひたすらに追い続けた自分。
どれもこれもわたしのことだ。
これでもかというくらいの思い出と、もう引き出すことのできない記憶が山積みで、途方に暮れる。
自分のものだけでも持ちきれないのに、街ですれ違う人それぞれに忘れられない記憶と、もう思い出されることのない記憶があるのかと思うと、その果てしなさにクラクラする。
これまで起きたこと。
これから起こること。
死ぬまでの間、わたしはこの先も膨大な思い出を抱えて生きていくのだろう。
死ぬ間際にはもう思い出せないことばかりかもしれない。
だからこそ。
忘れたくない気持ちは脳内といういい加減なクロークに預けるのはやめよう。
風化させてしまうことは簡単だけれど、一度風化してしまったものはもう元には戻らない。大切な気持ちは、その時に、その時の空気ごと閉じ込めなければならない。
昨日チャットモンチーが完結し、わたしの人生の第1ステージも完結を迎えた。
つまり今日は、わたしの人生の第2ステージのはじまりである。
このはじまりを機に、自己満足以外にどんな意味があるのかもわからないけれど、これからの日々をきちんと記録しようと思う。
そうすることが、わたしのこれからの人生に繋がっていく気がする。
これからのわたしに、乞うご期待。
(写真は今日訪れた眉山山頂からの景色。空が広く、とてもきれいだった。)
ついにきた7月4日
毎朝、通勤電車の窓から建設中の国立競技場が見える。
この通勤路になってから毎日眺めているけれど、作業が進んでいるのかいないのか傍目にはわからない。
だんだん変わって気づいたら全く違うものになるという脳トレのテストみたいに、気づいたら建設が終わっていてびっくりするんだろう。
2020も未来の話だけれど、意外とあっという間にその日を迎えるのかもしれない。
チャットモンチーの武道館公演も、気がつけば今日だった。
彼女たちの最後の武道館ライブであり、ラストワンマン。
東京での最後のライブを武道館で行い、本当の最後を地元で迎えるのは、久美子が辞める時と同じでなんだか感慨深い。
このライブが発表されたときは7月なんて遠い未来だと思っていたけれど、あれよあれよと時は過ぎ、向き合わざるを得なくなった。
先日発売されたラストアルバム「誕生」。
変身に変身を重ね、打ち込みでつくられた本作はもはや初期とは別物だ。
けれど鳴っている音はチャットモンチー以外のなにものでもない。
ビートルズがビートルズというジャンルを生み出したように、チャットモンチーはチャットモンチーというジャンルを編み出してしまったのだと思う。
人数が変わっても、パートが変わっても、使用する楽器が変わっても、変わらないものは変わらない。
確固たる芯があるからこそ、いくら変わっても変わることがない。
チャットモンチーのラストアルバムがこうなるだなんて誰も(きっと本人たちでさえも)予想できなかったけれど、これ以上にないとても相応しい最後に思えた。
アルバムの試聴会で溢れた涙。
先日のアルバムの誕生会ライブで溢れた涙。
アルバムを再生するたびに溢れる涙。
この涙の理由がわたしにはわからない。
悲しいのか、嬉しいのか、内に抑えられない好きが溢れているのか、まだ完結を受け入れられていないのか。
今日という日をどういう気持ちで迎えるべきなのか、ずっと考えてきたけれど答えは出なかった。
これだけ考えてもわからないのだから、観終わって感じたことが全てなのだと思う。
どんなライブになるのかわからないけれど、きっとまたあたらしく変身した姿を見せてくれるんだろう。
泣いても笑っても、数時間後には始まる。
後悔がないように、全ての瞬間を見届けたい。
「いっぴき」を読んだ
いっぴきを読んだ。
文筆家である高橋久美子さんが書いたエッセイ集。
高橋久美子さんは言わずもがな、わたしが敬愛するチャットモンチーの元ドラマーでもある。
元々わたしはくみこん(久美子さん、と呼ぶのはなんだか気恥ずかしいのでくみこんと表記します)の書く詞がとても好きだった。
チャットモンチーの歌詞は3人それぞれの個性が光っている。
中でもくみこんの詞はユーモアがあって素直で、それでいてロマンチックなのに、曲を聴いていてどうしても心に引っかかって外れない言葉がたくさんあった。
(例えば「愛捨てた」の一節、"こんなに悲しい夜でさえ やっぱりおなかは空くのだから 私はまだ人を好きになるのでしょう"。おなかが空くことと、恋愛をこうも絡めて表現出来る人が他にいるでしょうか。)
だからそんなくみこんの節目となるこの本を手に取るのはごく自然なことだった。
くみこんがドラマーから言葉を扱う専門家として、チャットモンチーの2人は音楽家として、それぞれの道を歩いてきた。
それがこの6年間だった。
わたしはどちらも応援してきた、つもりだ。
チャットモンチーの新曲がリリースされるたびにCDを手に取り、ライブに足を運び。
くみこんの作詞ワークショップに参加したり、ヒトノユメの展示を観に行ったり。
すごく刺激的だった。
それぞれの道をがむしゃらに歩いてゆく彼女たちは、進む道は違えど常にわたしの憧れであり目標であった。
一方でわたしはといえば、中学生の時からロッキング・オンの大ファンで、将来はジャパンの編集者になりたいと思っていた。それがわたしの目標であり、夢であった。
けれど年齢を重ね、思考や趣味が変わり、わたしの純粋な想いは徐々に濁っていった。
濁っていることには気付いたけれど、しばらくは気付かないふりをしていた。
気付いているのを認めることは、過去に夢見た自分のまっすぐな気持ちを裏切ることのように思えたからだ。
けれどわたしの気持ちは何故だか夢から乖離してゆくばかりで、どうすべきなのかわからなかった。
自分の気持ちに迷いがある中、受けた入社試験は落ちた。当然だと思った。
けれどそれを受け入れられない自分もいた。この胸の痛みはなんなのか、もう考えることも嫌だった。
悩んだ末に結論は出なかったけれど、コンテンツに関わりたい気持ちだけはあったので、印刷会社に入社した。もう3年目になる。
けれど働いていて感じる違和感が、日に日に大きくなっていき、わたしの首を絞めてゆく。
今のままでいいのか。
本当にやりたいことは、もっと他にあるんじゃないか。
そんな気持ちを抱えつつ、けれど具体的に何をしたら良いのかわからなくて、苦しい時間を過ごしていた。
そんな中、この本を読んだ。
なーんだ。夢は変わってもいいんだ。
純粋にそう思えた。
これまで夢を、国語の教師、ミュージシャン、文筆家と変化させてきたくみこんの背中を見てきたのに、なんで気付けなかったんだろう。
元チャットモンチーの高橋久美子から、もうとっくに文筆家となっていたくみこんの生み出した言葉たちは、わたしの中に渦巻いていた膿のようなものをすっきり洗い流してくれた。
これまで、自分の文章なんてありきたりなのだから、あえて発信する意味なんてない、と思い込んでいた。
音楽に関する知識も生半可なのだから、わたしは何も言うべきではないと信じていた。
けれど、それは大きな間違いだった。
言葉を好きな気持ち。音楽を好きな気持ち。
自分の中で揺るがない、大切なものを無視してきたことが、これまで感じていた日々の違和感であり、わたしの体内を右往左往している言葉と気持ちは、ずっと外に出ることを望んでいたのだとこの本を読んで気付いた。
この気持ち、なにかかたちにしてみよう。
まだ、わたしは、何にでもなれる。
これまでチャットモンチーの曲に背中を押されることばかりだったけれど、また押されてしまったな。
いっぴきに出会えてよかった。
おまけのはなし
いっぴきの中に、くみこんの東京でのチャットモンチーラストライブ(テレ朝のドリームフェスという多くのアーティストが出演するイベントでした)で、くみこんの父がB’zのウルトラソウルの最中呑気にトイレに行っていた、という話があった。
あの時のウルトラソウルといえば。ページをめくる中、記憶の扉が大きく開く感覚があった。うわああ。
当時高校生だったわたしは、最終の新幹線で実家のある群馬に帰らなければならなかった。
泣く泣くB’zのウルトラソウル真っ只中に席を立ち、アリーナの出口へと向かったところ、見覚えのある大好きな人がいた。
当時わたしがハマりにハマっていた9mm Parabellum Bulletのドラマー、かみじょうさんが1人、B’zを眺めていたのだ。
数秒迷った末、若気の至りか、事もあろうにウルトラソウル中に話しかけ握手してもらった。今思うと本当に最悪で最低なファンである。
よりによって、ウルトラソウル。
なんで、わざわざ、今。
あの時、くみこんの父より呑気だったのは他でもないわたしでした。
かみじょうさん、その節は、本当にすみませんでした。
団地に住んでみたかった
団地。
群馬の平野に住んでいたわたしにとって、ほど遠い存在であった団地。
これまでなんの興味もなかったのに急に気になってしまったのは、シャムキャッツの夏目氏の団地コラムを読んだからです。
読んでもらえればわかるけど、団地って、なんだかおもしろい。
知らない人達同士がとても近いところで生活して、コミュニティをつくっている。
家族じゃないけど家族みたいな距離感のコミュニケーションに、途端に憧れの気持ちを抱いてしまったのでした。
わたしの家の周りは住宅街だったので基本一軒家に皆住んでいて、マンションに住んでいる人が珍しく、ましてや団地に住んでいる人はほぼ皆無でした。
だからわたしの世界に団地は存在しないとほぼ同義であったし、団地に住むってどんなだろうなんて考えたこともありませんでした。
でも、このコラムを読んで、考えずにはいられなかった。
もしもわたしが団地に生まれ、団地で育っていたならば。
わたしにとっての団地が、ただいまとおかえりが行き交う場所であったならば。
同じ団地のおじさんに怒られ、その時はなんだよと思っても後々叱ってもらえてよかったなと感謝したかな。
団地の派閥に巻き込まれ、大揉めし、あーもー早くこんなとこ出て行きたい!って思ったかな。
同じ団地に住む男の子と恋に落ち、家族が寝静まったあとにこっそり抜け出したりしたかな。
団地に住んでいる自分への妄想が止まらない傍ら、いまもわたしの知らないところでたくさんの知らない人たちが団地で暮らしているということの現実味のなさに、知らない国のおとぎ話のようだとも思うのでした。
(なんの話?て感じだと思いますが、日々こんなことばかり考えています。おしまい)
高円寺という街
引越しをしました。
18歳からほぼ1人で暮らしていますが、下井草、北浦和、ときて3つ目の土地です。
部屋探し、引越し屋の手配、不要家具の処分、電気水道ガスの手続き、荷造り、新しい家具探し、などなど自分の段取りの悪さに辟易する日々でしたがようやく落ち着いてきました。
先日まで住んでいた街は、穏やかなところでした。
商店街があって、大きな公園があって、小さなライブハウスやレコード屋さんがあって。
家の前の道路では時たまフリーマーケットや阿波おどり大会などが開催されて賑わっていたし、隣駅にはデパートや商業施設もあり生活するのに不便ではなかった。
街には学生や家族連れが多く、治安が良くて暮らしやすい街でした。
なんで引っ越すの、って色んな人に聞かれました。まだ2年しか住んでないのに。もったいない。なんで。
今の家は前の家よりも会社まで遠いです。
乗り換えは増えたし、中央線は毎朝混むしよく遅れるし、部屋も前よりは新しいけれど狭い上に家賃は高い。
なのになんで。
わたしはやっぱり、東京で暮らしたかった。
東京で、色んな文化に触れて、ドキドキしたかったんです。
こんな落ち着いたところに住んでいては、わたしの感性が死んでしまうと思いました。
もう24、と思う人もいるかもしれないけど、わたしはまだ24です。
これから色んなこと、人、モノと出会ってワクワクしたい。
そしてその舞台にふさわしいのは、他でもない東京だと思いました。
インターネットでどこにいたってなんだって買い物が出来るこの時代だけれど、田舎者だから、やっぱり東京が好きなんです。
引っ越して今日でちょうど1ヶ月ですが、なかなかに楽しくやっています。
行ききれないほどある飲食店、古着屋、レコード屋、パン屋、街にいる変な人達、バンドマン。
わたしはまだなにも知らないけれど、なんとなく愛おしくて、知れば知るほど好きになってしまうんだろうなと思っています。
これからこの街と生きていきますが、一人ではなかなか勇気が出なくて行けないところもたくさんあるので、知り合いの皆さんは是非遊びに来てください。
杉並は高円寺にて、お待ちしています!
9 BEST ALBUMS OF 2017
折角ブログを作ったので活用してみようかな、と思い2017年のマイベストディスクたちをピックアップしてみました。
今年発売されたアルバム、EPより9枚選んでいます(順不同です)。
今年はspotify、apple musicの2つのストリーミングサービスを利用したおかげで新譜を聴く機会が昨年より大幅に増えました。
良い音楽との出会いがたくさんあって選ぶのは大変だったけど、充実した1年だったな!
DYGL/Say Goodbye to Memory Den
spotifyのオススメでwaste of timeを聴き、一気に夢中になったバンドです。
strokesのアルバートハモンドjr.がプロデュースしていることもあり、かなり日本人離れしている音の作り方だと思います。(何も言われなかったら海外のガレージバンドと思うかも!)。
キャッチーなメロディとリフもさることながら、なにより曲の展開が素晴らしい!
欲しい時に欲しい展開が来る感じ、まるで中田ヤスタカのDJみたいです。
雑念とか悩みとかなにもかも忘れて、音の渦に飲み込まれてしまうこの感覚、唯一無二!
BECK/Colors
2017年、こんなにもBECKのことが好きになってしまうなんて予想外でした。
colorsのジャケがとてもかわいくて、なんとなく聴いて以来虜です。
BECKのようにキャリアのある人が、こうやって振り切ってどんどん新しい道を切り開いてくれるのはとても夢があるし素敵なことだなと思います。
どの曲の音作りもとても好みなんだけど、dreamsのイントロのヌケ感のあるギターが特にたまらん!
朝電車で聴くのもいいし、家で踊りながら聴くのもいい。何にでも合うポップアルバムです。
意外と雰囲気が合うのでアナログで聴くのもオススメ。
Yogee New Waves/WAVES
森道市場で初めて観てからなんだか気になる存在になり、今年はこのアルバムだけでなく1st、EP含めてめちゃくちゃ聴きました。
あまりバンドを形容するのには相応しくないのかもしれないけれど、ヨギーを一言で表すと“ロマンチック”なのだと思います。
余裕のあるカッコよさの一方、どこか夢見心地でうっとりしてしまう不思議な音楽。
ヨギーの音楽は魔法だ!
Lorde/Melodrama
5曲目のliability、おそらく今年1番聴いた曲です。
1stで評価されてからの周囲の反応、恋愛、それらに対する複雑な感情を、彼女のハスキーで儚い歌声と美しいメロディに乗せられたらこれ以上のものはありません。
わたしは彼女ではないし彼女のような立場でもないけれど、聴くたびにつるんとした心がざらついて、悲しくもないのにちょっと泣きそうになります。
感情を揺さぶられるとはこのことを言うんだろうな。
この曲だけでなく、アルバム通して好きです。
夜の散歩で聴くのがオススメです。
never young beach/A GOOD TIME
ヨギーと合わせて夏によく聴きました。日本人でここまでリゾート感のある音を作れるのはすごい(やっぱり細野さんの影響が強いのでしょうか)。
特に1曲目、夏のドキドキはまさにあのワクワク感を代弁してくれているようで最高だし、表題曲SURELYの歌詞の一節、“恥ずかしいほど君を愛してる”になんだかグッときてしまいました。
そして今作は終始阿南氏のギターが気が利いていてカッコいいので、そこにも注目してほしいです。
Tempalay/from JAPAN 2
良い意味でチープな音に乗る奇想天外な歌詞に心掴まれました。
サイケな雰囲気なのにシティのこなれ感があり、コード進行からなにからしておしゃれ。
まるで未来からきた音楽を聴いているようで、このSF感にワクワクします。
柴田聡子/愛の休日
柴田さんの曲は強い。
声もギターも心地よくて愛に溢れているのに、不意にナイフで刺されちゃうような毒があって適当な気持ちで聴くとやられます。
凛としていてカッコイイし、なんだか憧れちゃう存在です。
Wanna-Gonna/In the Right Place
とにもかくにも雰囲気が最高のアルバム!
思わず口ずさんでしまうポップなメロディと、なんだか親しみが持てるボーカルが魅力です。
何故かはわからないけどワナゴナ聴くと雄大な自然の風景が頭に浮かびます。
日曜の昼間、公園でピクニックするときなどにオススメ。
清 竜人25/WIFE
清竜人がいかに類稀なるソングライターなのかを思い知らされる1枚。
アルバム全体に溢れるハッピー感と、滲み出る清竜人と夫人たちの関係性がほんとうにステキ。
夫人たちは歌がめちゃくちゃ上手いとかではないけど、個性に溢れてて本当に愛おしいし、解散しても大好きなアイドルです。
第3夫人亜美ちゃん推しです。
というわけで今年の9枚は以上となります。
このブログを書くにあたり聴き返したのですが、どのアルバムも本当に大好きだな〜と思ったしこれからも大切に聴きたいです。
来年もまた、ステキな音楽との出会いがありますように!
チャットモンチーのこと
わたしはチャットモンチーというバンドがとても好きです。
中学2年生、兄の部屋から漏れていたとび魚のバタフライを聴いてチャットモンチーというバンドがいることを知りました。
へんてこな歌詞のはめ方なのにキャッチーで、かわいいのにカッコ良くて、知れば知るほどわからなくて、気付けばすっかり虜でした。
間も無くチャットモンチーが初めて表紙を飾ったロッキングオンジャパンは、隅から隅まで読みました。
紙面から彼女たちのただならぬ覚悟と決意を感じて、バンドって人生を変えてしまうんだなあなんて思いました。
夢中で音源を聴いていたら、どうしても生で観てみたくなって、春休み最終日には友達を誘って群馬からはるばる武道館に行きました。
わたしにとっても、友達にとっても、チャットモンチーにとっても初めての武道館でした。
2階席、ステージは遠かったけどそんなの気にならなくて、憧れの人たちが自分と同じ空間で大好きな曲を演奏しているという事実だけで胸がいっぱいでした。
それからお小遣いで少しずつCDを買い揃えて、頭がおかしくなるくらい何度も何度も、何度でも再生ボタンを押しました。いくら聴いても飽きませんでした。
中学3年生、彼女たちのように演奏してみたくなって友達とバンドを結成しました。教則本を読みながら、兄のギターをひたすらに鳴らしました。
バンドで一番最初にコピーしたのはハナノユメだったけど、初心者のわたしにはどうにもこうにも難しくて、何度も練習しました。
それからわたしのバンドは、半分チャットモンチーのコピーバンドのような感じで文化祭に出たりライブハウスに出たり、小さなコンテストにも出たりしました。
その間もチャットモンチーはカッコいい曲をたくさんリリースしてくれて、新曲が発表される度にどきどきして好きになって、自分の中で大切な曲となっていきました。
高校3年生、自分のバンドの活動を休止して勉学に励みました。
チャットモンチーを聴いてるとそれだけで元気が出たし、真面目に音楽に取り組む姿に感化されて、わたしも頑張れました。
だからこそ、塾の自習室で、久美子が脱退するニュースを見た時には、なかなかその事実を受け止られませんでした。
3人の黄金バランスで成り立っている音楽だ思っていたから、久美子がいなくなったらチャットモンチーではなくなると思ったし、どうなってしまうのか全く想像できませんでした。
ただその不安は、見事に良い意味で裏切られました。まさか、ベースがドラムに転向、そして2人組のバンドになるなんて、誰も想像出来なかった姿でした。
普通のバンドではまずありえないけれど、この奇想天外さこそがチャットモンチーの核だということをこのとき教えられた気がします。
チャットモンチーが好きだと言うと、3人の時の方が良かったなんて声も多かったけれど、わたしはむしろどんどん変身して新しい音を鳴らしてくれるチャットモンチーにひたすらときめいていました。
今回のチャットモンチー完結の発表は、それはもうびっくりしたし動揺したしめちゃくちゃ泣いたし嘘じゃないのかと何度もHPを確認したりしました。嘘じゃありませんでした。
ただそれ以上に挨拶文があまりにチャットモンチーらしくって、やめないでだの寂しいだの、野暮なことを言う気にはなれませんでした。
今年のツアーを振り返ってみても、挑戦的な音がとてつもなくカッコ良くて、これからの進化が楽しみだなと思っていたから、2人の変身の過程の一つとしてこういう選択もアリなんだろうな、と発表から数日経った今は思います。
わたしは大学1年生から自分のことをナナモンチーと表現していますが、この名の通りチャットモンチーはもはやわたしの自我の一部です。
これでもかというほど影響を受けたし、へこんだり、迷ったり、不安になったりしたとききにはいつもチャットモンチーの音楽が背中を押してくれました。
中学生からOLになり、趣味嗜好も大きく変わったのに、チャットモンチーはずっとカッコ良く、憧れの存在で居続けてくれて、そのことにわたしは本当に救われました。
チャットモンチーの他に、こんなにもファンでいることが誇らしいバンドはいません。
チャットモンチーと出会い、恋に落ち、共に人生を歩んでこれたこと、本当に幸せに思います。
ここまで思い入れのあるバンドは他にいないから、やっぱり完結してしまうという事実にまだ心は追いついていないけれど、2018年の7月、チャットモンチーのおしまいをわたしなりの愛を持ってきちんと見届けようと思います。
チャットモンチー、大好きだ!