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21世紀の女の子として生きるために。

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「21世紀の女の子」という映画を観た。
15編のショートフィルムが1作品になった、いまを生きる女の子のためにつくられた映画だ。
この映画を観て考えることがあまりに多かったので、ここではそのことをきちんと書き記そうと思う。


私が故郷である群馬県高崎市を離れ、星のない街に降りて今度の春で丸7年が経つ。
群馬に住んでいた頃は、群馬のことが嫌いで嫌いで仕方なかった。早く東京に行きたい、東京で暮らしたいとばかり思っていた。片道2時間かけてたまに遊びに行く東京は、地元の何百倍も輝いていて楽しくて、わたしが欲しい何もかもがあるような気がしていたからだ。
けれど、この年末年始に帰省をしてようやく気づいたのは、わたしはこの街が嫌いだったのではない、ということだ。夏は暑く冬は寒い土地だったけれど、それなりのインフラは整っていたし、住むには困らない街だった。では何が嫌だったのか。

それは、「田舎を田舎たらしめている思想」だ。
東京の私立大学に進学したい、と話したら、女なのだから地元の短大でも行けばいいだろうと言われたことは死んでも忘れない。稼いでいる人が一番えらいとか、女は夫を支えて当たり前だとか、女に学歴は必要ないとか、そういう前時代的な思想が確かにそこにあって、わたしは大きく戸惑った。学校で教えられてきたことと、目の前の現実が大きくかけ離れすぎていたからだ。いまはそういう時代ではないことをいくら伝えても、分かり合えない壁が確かにそこにはあって、同じ言語を話しているはずなのに何を話しているのかわからなかった。「男女共同参画社会」や「男女平等」という言葉は机上の空論でしかなく、なんだかばかみたいだと思ったし、こんな悩みを抱える必要すらなかった兄のことを、少し恨めしく思ったりもした。

悔しくて悔しくて、たくさん勉強して東京の名門と呼ばれる私立大学に合格した。すると手のひらを返したように、褒めたり近所の人に自慢したりして、顔もよく知らないおじさんに受かったんだって?なんて話しかけられたりして、この茶番はなんなのだろうと思った。皆が皆の事情を知っているのが当たり前であること、肩書きや見栄が何よりも大切なこと。田舎を田舎にしているのは、都心からの距離ではなく、そこに暮らす人々の間に深く根付いている思想なのだと気づいた。

東京に行ったら、なにか変わるかな。
淡い期待を持って上京したけれど、大学ではまた別の違和感に悩まされることとなった。
「一女」は価値の高いブランドとして必要以上にもてはやされる一方、たった3年しか変わらないのに「四女」になれば屍と揶揄され、無下に扱われること。皆お互いにこんな枠組みに押し込め合っていて、息苦しくないのかなとぼんやり思っていた。
大学を出て会社に入ると、先輩や上司は男性と対等の立場で接してくれた。けれど飲み会や得意先への接待は、「女子」であることを求められることが多く、媚びざるを得ない自分の立場にやりきれなさを感じることもあった。仕事を辞めることを報告したときに、にやにやしながら「結婚するの?」「寿退社?」と少なくない人数の人に言われたことは記憶に新しい。

そしていま、わたしは幸いにもそういう生きづらさをあまり感じない環境にいる。けれど、これからもう少し年を重ねたら、きっとまた同じ壁にぶつかることだろう。
いくら男性の育児休暇取得が認められるようになったり、イクメンという言葉が流行ったりしても、いまはまだ育児をするのは基本的には女性の仕事だ。だからいまのキャリアを諦めたくないのであれば、必然的に仕事か家庭、どちらかを選択しなければならない時が来る。そして25歳のいま、その岐路に立たされるのはとても近い未来の話だ。


女の子だからもらえるティッシュ、女の子だから払わなくてもいいお金、女の子だから優先的にもらえるおかし、女の子だから飲まなくてもいいお酒。
わたしがラッキー、と思った裏で、なんでだよ、と思う男の子はどれだけいたことだろう。そして、そのラッキー、の裏で、そんなものではチャラにできるわけがない、踏みにじられた女の子の尊厳や思想はどれだけあったことだろう。

「女の子だから」という自分ではどうしようもできないことで、得をすべきでも損をすべきでもない。それ以外の、「その人自身」という枠組みで判断するべきだし、されるべきだと思う。
だからわたしは、この現状に怒らなければいけない。私が怒るのは、自分のためでもあるけれど、未来の女の子たちのためでもある。何故ならいま、当たり前のように手にできている多くの権利は、これまでたくさんの聡明な女の子たちが、自分たちの不当な扱いに怒ってきてくれた賜物であるからだ。
自分が感じた怒りや悲しみや違和感をぐっと我慢して飲み込むことは簡単だけれど、わたしがそれをしてしまったら、未来の女の子たちにも同じ怒りや悲しみや違和感を感じさせてしまうことになる。
だからわたしは怒る。男の子に生まれてくればよかった、なんて女の子が思わないために。女の子が女の子であることをまっすぐに楽しめるように。

ここまで女の子の話ばかりしてしまったけれど、決して女子優先の社会に、と主張したいわけではない。
わたしが言いたいのは、女の子も、男の子も、そういう枠組みに当てはまらない人も、自分では変えようのない事柄で、無意味に悩んだり憤ったり悲しんだりするべきではない、ということだ。
これからの時代をつくるために、そんなどうでもいいことに頭や時間を使うのはもったいない。それよりももっと、この世界には考えるべきことややるべきことがある。
そして、そういう世界が当たり前となるように行動できるのは、他ならぬ、21世紀を生きているわたしたちである。


いま、やるべきことは何なのか。
このことについて皆が思考を止めず、前に進んでゆける時代になることを祈って。

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